思いがけず、関東地方の梅雨入りが遅くなった今年ですが、夏を前に、空気は水分が多く、雨の季節の予感が漂います。二十四節気は芒種(ぼうしゅ)を迎えています。立夏や立冬、大暑や大寒、夏至や冬至、のように天気予報などで耳なじみの多い節気もありますが、芒種はあまり聞きなれないかもしれません。芒(ノギ)とは稲や麦などが実るときに、穂先にある針のような部分のことを指します。現在は田植えの時期が早まりましたが、以前はこの時期にそれら穀物の種を撒くとされていました。
そうなると、あら?七十二候では直前に、麦秋至(麦のとき至る)を過ごしたのに…、と思いましたが、麦には秋撒きで越冬をして初夏に収穫するものと、春撒きで初秋に収穫するもがあるそうで、なるほど、納得です。
七十二候は、蟷螂生(かまきりしょうず)、腐草為蛍(腐れたる草蛍となる)、を経て、梅子黄(梅のみ黄ばむ)、の時期を迎えています。庭や公園、あちらこちらで黄色から薄だいだい色に色づいた梅の実を見かけます。店先にもきれいな青梅と一緒に氷砂糖や保存瓶、焼酎などが並び、梅仕事の時がやってきました。
梅の花は香りとともに季節を感じる印であり、そしてその実は大事な食材の一つとして、私たちの生活には欠かせない存在です。梅の歴史は古く、飛鳥時代(6世紀末~)には中国から薬として日本に伝来し、奈良時代(710~)には万葉集に梅が詠まれています。現在の元号、令和も梅が詠まれた万葉集の文言から引用されました。
平安時代(794~)になると、有力御家人が将軍を振る舞う行事があり、その献立に梅干が登場した記録があり、さらに、室町時代(1336~)、武士の間では、その持ち運びの便利さもあり、薬として梅干が重宝され、梅の木が全国に広がったきっかけになったと言われています。安土桃山時代(1573~)には茶道の世界に、茶菓子の原型の茶請けとして用いられ、また、その花姿は茶器や華道へと発展します。
江戸時代(1603~)になると、それまで僧や武士、身分の高い人の口にしか入らなかった梅干も、一般の人々の食卓へ上がるようになります。また、今、当たり前にいただく、赤シソと一緒につけられる赤い梅干が出回るのも、江戸時代です。ご飯の供はもちろん、茶請けや、今のような大豆発酵の濃口醤油がなかったころは、調味料としても重用されました。現在の梅干とほぼ同じ作り方が紹介されたのも江戸初期です。
古くから、人々の暮らしとかかわり深い梅ですが、今でも、梅干や梅酒、梅シロップなどを作る梅仕事は、一般家庭でも、梅の実収穫のこの時期、季節の楽しみの一つとなっています。
子供の頃、祖母と母が一緒にたくさんの梅干しを干したり、梅酒をつけたりして、その季節の行事を少しだけ手伝ったり、見ていたりすることが特別なことで、嬉しい時間でした。とはいえ、子供に与えられる手伝いは、せいぜい竹串でヘタを取るぐらいのことで、あとは、甘酸っぱい梅の実の香りの中、何の手順も見ることもなく、世間話をしながら、笑いながら、楽しそうに梅仕事をしている様子を、大人ってすごいなー…、などと思いながら眺めていただけなのですが。
さて、大人になり、家族も少ない今の生活では、きちんと梅仕事をしたとしても、消費に限界があり、今はもっぱら、美味しそうに並んでいる梅干を食品売り場で買い求めることがほとんどとなってしまいました。それでも、毎年、梅を使ったジャムやシロップなど、何かを作っています。今年は、青梅と味噌と砂糖少々を、そーっと、そーっと、煮詰めるだけ、の梅味噌を作りました。爽やか、酸っぱい梅味噌は、野菜でもお肉でも魚でも、麺でも、もちろんご飯でも、何にでも会う万能調味料で、日持ちもしそうですので、これから毎年の梅仕事の一つになりそうです。
控える二十四節気は夏至(げし6月21日)です。一年で最も日が長く、夜は短くなり、暑さも増してくる時を迎えます。七十二候は、及東枯(なつかれくさ枯るる、21日~)、菖蒲華(あやめはなさく27日~)、半夏生(はんげ生ず7月2日~)と続きます。自然の営みは植物たちの様子となります。冬に芽を出し、この時期に枯れてしまう夏枯草とはウツボ草のことです。アヤメ、実際には、ハナショウブが咲くころとなり、半夏、別名カラスビシャクが生える頃には雨が降ると言われます。枯れる草、生える草、自然は進みます。どちらにしても、緑の多い夏の盛りに向かう時、本格的な暑さを迎える前に、身体を整えておきましょう。ぬるめのお湯にゆっくり、ゆったり入浴時間をとり、汗の出やすい身体を作り、自律神経の働きを整えて、今日も良くお休みください。
梅仕事の後、ほのかに残る梅の香りの中、朝には元気にお腹がすいていそう。
染谷雅子
ギャラリーはなぶさ https://www.hanabusanipponya.com
作品:キャンドルホルダー
作品:ガラスコースター