すでに3月5日には啓蟄(けいちつ)を迎え、大気は春の雰囲気をまとい、日も長くなってきました。確かに、土の中に眠る虫たちも目を覚まして、もぞもぞと動き出しそうな気配です。でも、外に出たとたん、春の風が吹き荒れ、びっくりしそう。人も同じで、暖かそうな日差しに誘われても、空気は思いのほか冷たくて、起き出そうと思っていた布団の中に潜り込みたくなってしまいます。七十二候は蟄虫啓戸(すごもりのむしとをひらく3月5日~9日頃)、桃始笑(ももはじめてさく3月10日~14日頃)、菜虫化蝶(なむしちょうとなる3月15日~20日頃)となり、自然界も何やら忙しそうな気配です。
春一番は立春から春分までの間に吹く強い南風のことです。春一番が吹くと、あっ、春もそこまで、と思うものですが、気象上では、春一番は冬型の嵐の前触れとなることもあるとのこと。その通り、温度の変化が激しく、日中でも寒暖差が大きくなるのがこの季節です。温度差に備え、ストールなど羽織るものを携えて、体を冷やさないようにしましょう。また、体感できる発汗量も少なく、喉の渇きを感じにくくなりやすいので、水分補給をしっかりして、代謝を滞らせないよう、気をつけたいものです。冬に溜めこんでしまった老廃物を、排出しやすくして、来る春本番に活発に動けるよう、心身を目覚めさせましょう。
お勧めの食材は、冬の寒さの殻を破り、緑を濃くした、フキノトウやワラビ、ゼンマイなどの山菜。見るも鮮やかないろいろな緑色は、視覚的に春の訪れを脳に知らせてくれますし、恵みの味は、その苦味や辛味などが体を刺激して、新陳代謝を促します。春にぴったりのお宝食材です。少量で良いので、日々の献立に春を取り入れて、春をお楽しみください。
啓蟄の「啓」の字には、「開く」という意味があります。「桃」の字は、木偏に兆し。春はそんな期待に動き出す時です。何か新しいことあるかしら?
私は、この春久しぶりにピアノ伴奏でバイオリンソナタを弾くという機会に恵まれました。ベートーベン作曲の「スプリングソナタ」です。子供の頃に一度見た譜面ですが、きちんと見返すのは本当に久しぶりです。この年齢になって改めてこんなにいろいろなことが盛り込まれているのか…、と気づき、歳を重ねて良かったことが増えました。
この曲はちょうど19世紀の始まり、新しい世紀の幕開けに、ベートーベン30歳ぐらいの頃、作曲された作品です。バイオリンソナタといっても、ピアノは伴奏の範囲にとどまらず、共演のような、ピアノとバイオリンの応答が麗しい作品で、練習もとても楽しい時間です。特に、出だしにピアノと同時に音を出す、お互いに、息を吸い込み、自然に吐き出したと同時に音を繰り出す瞬間に、春の訪れを感じるのです。無音の空間を切り開く、瑞々しい春の訪れ…、と、なるように、がんばって練習しているのですが…。
その発音の瞬間に、思い出す映像があるのです。子供の頃、微熱が出て学校を休んだ春の午後、イモムシから育てて、さなぎになったアゲハチョウが羽化したのです。寝間着のまま布団の傍に虫かごを持ち込み、その一部始終を見逃すまいと、見据えていました。気付いた時、すでに、さなぎは透けていて、蝶々の羽の柄が見えるまでになっていて、もぞもぞと動いています。うっすらと背中の部分が裂けて、もりもりと身体が出てきました。一緒についている羽はまだクシャクシャで小さい。体が全部出ると、その蝶が知っている時を待つ、静かな時間が流れ、その間に、羽は魔法のようにみるみるきれいに広がっていきます。そして、その時が来ます。少し歩いて、枝の先まで行って、飛び立つのです。あー、今日、学校を休んで、なんて幸運だったのだろう、と、心から感動したのです。と、その飛び立つ時の、すでに、アゲハチョウはそこにはいない、その羽音が聞こえるような、そんな始まりの瞬間の映像を思い出す、この曲の冒頭です。若い頃には、その穏やかで爽やかな様や、嵐に出会ったり、風が吹いたり、また戻る、そんな季節としての春を表現しているのだ、と思っていました。今譜面を見直すと、自然と同じように様々なことがある、人生の「春」も表現しているのだな、と思えます。
ぜひ、ベートーベン作曲、「スプリングソナタ」、春を聴いてみてください。
始動の今、春の訪れを五感で受け取ってください。
そして、今夜もぐっすりお休みください。
染谷雅子
ガラス作家・アロマセラピスト 染谷雅子
ギャラリーはなぶさ https://www.hanabusanipponya.com
作品写真は「ガラスのバイオリン」と「モビール 花と蝶」